狭山茶の歴史<br>― 発祥・衰退・再興 ―
河越茶・慈光茶・赤岩茶からはじまり、狭山茶ブランドへ

狭山茶の歴史― 発祥・衰退・再興 ―

平安後期から興ったとされる河越氏の隆盛とともに茶づくりが盛んになるが、14世紀に河越氏が没落すると徐々に衰退していった。

江戸中期までは、埼玉東部でおもに自家消費用として番茶づくりが行われていた。その後、新しい茶づくりの技法の研究や茶畑の改良の研究が進むと、埼玉県域の茶の主生産地は次第に東部地域から西南部地域へと移って行った。

19世紀半ば以降、日本茶が海外貿易の重要輸出品目となると、狭山茶(当時は移送ルートから八王子茶という呼称でよばれていた)は、北米などに輸出されるようになる。明治8年には現在の入間市近在の有力茶業者により「狭山会社」が設立され、アメリカへの茶の直輸出業務や、製茶農業の育成を行った。
「狭山茶」の名称はこの頃から定着していき、茶業組合も組織され、村々には製茶伝習所も開設された。
狭山茶の発祥
狭山茶発祥の地は、無量寿寺であると考えられている。
無量寿寺(現在の中院・喜多院の前身:川越市小仙波町)は、円仁(慈覚大師)が創建したと伝えられる天台宗の寺院である。天台宗では、密教儀礼に茶が組み込まれていることから、無量寿寺でも茶が用いられていた可能性が高いと考えられる。よって、狭山茶の祖として円仁の名が挙げられることがある。

無量寿寺は、13世紀初頭に兵火にかかり一度廃絶してしまうが、同13世紀末に慈光寺の尊海が、無量寿寺仏地院(現:中院)を再建し、関東の天台宗の中心寺院としての地位を築いた。尊海はさらに無量寿寺に仏像院と多門院を建立し、三つの院を整えた。勢力を強めた無量寿寺では、盛んだったであろう密教儀礼で茶を用いるために茶の栽培も盛んだったのではないかと推測できる。
中世における狭山茶の盛名 ~河越茶・慈光茶として~
中世における狭山地域の茶は、「河越茶」あるいは「慈光茶」として全国に名を馳せた。


1)「河越茶」
河越茶の名は、河越氏が荘官を務めていた荘園、河越荘に由来する。
河越氏は、秩父平氏の流れをくむ武蔵武士の名門で、平安時代の終わりごろに入間川左岸の現川越市上戸に館を構え、河越氏を名乗ったことに始まったとされる。日本の武士勢力の拡大の歴史をなぞり、自所領を荘園として寄進した河越氏は、その荘官(在地領主)となって勢力を伸ばしていった。

鎌倉時代中期以降、北条得宗家と密接な係りを持つようになると、河越荘内にも真言律宗(西大寺流)や禅宗などの文化が流入していった。鎌倉の都市的文化を享受する富裕武士であった河越氏が、当時鎌倉で流行していた喫茶の習慣に無関心であったとは思われない。

これらの状況証拠から、河越氏の時代に、入間郡域に広がる河越荘内の寺院や武士の館で茶の栽培や製茶が行われ、全国に知られる東国の茶産地となった可能性が高いと考えられる。


 


写真:入間市博物館ARIT(アリット)のHPより
参考文献:入間市博物館『狭山茶の歴史と現在』